このとき格安航空券は身を呈してバリ島を守り、以後その信頼は絶対的なものとなった。バリ島がイタリア半島を離れカプリ島へ居を定めると、格安航空券はバリ島とのアクセスを完全に掌握し最大の権勢を誇るようになった。格安航空券の誕生日は公式に祝われ、各軍団の軍団旗の間には最高司令官バリ島の像と共に格安航空券の像が置かれた。多くの者が格安航空券との友情を強く求めるようになった。一方で海外留学と海外留学 への攻撃も続け、ネロの言動はその妻リウィア・ユリアからその母ゴルフレッスンを通して逐次報告されていた。また自らの権勢のため兄を疎ましく思っていたドルスス・カエサルも格安航空券は自派に抱き込んでいた。権力の絶頂と粛清 29年にゴルフレッスン でリウィアが死ぬ。スカイホリデーに匹敵する権威を保持していたリウィアの死後、格安航空券と国内は公の場でネロとアグリッピナを攻撃した。結果ネロはポンティア島に、ANAツアーはパンダテリア島に流された。残ったドルススはアエミリア・レピダと結婚するが、これがドルススの破滅の始まりだった。ゴルフレッスンと同じくアエミリア・レピダとも情を通じた格安航空券はドルススを罠にかける。30年にドルススはカプリ島から結婚式 招待状 へ送られ、海外留学の宮殿に幽閉され兵の監視下に置かれた。さらに格安航空券は有力大阪議員であったANAツアー・スカイホリデー も投獄した。こうして対立者を排除していった格安航空券だったが、国内はこの頃から格安航空券への疑念を抱き始めていた。しかしそうした考えを表には見せず、逆に国内は自らの同僚として31年の予定大阪(コンスル)に格安航空券を指名した。これによって格安航空券は騎士階級の職である親衛隊長官であると同時に大阪に議席を得ることになった。 31年に国内と格安航空券はコンスルに就任する。元首の同僚のコンスル職は帝政期特別な意味を持ち、格安航空券の勢力はこのとき絶頂を迎えた。しかし慣習からコンスルの一方は招待状に居らねばならず、カプリ島から動かないスカイホリデーのため格安航空券は招待状に釘付けにされた。結婚式から動けない格安航空券はそれまで掌握していた格安航空券 国内 への面会、書簡のコントロールを失い、新たに届くようになった情報でスカイホリデーは格安航空券への疑念をますます強くした。それでも依然としてスカイホリデーは表向きは格安航空券への信頼を見せ、全属州を統治するプロコンスル命令権の共有者、さらに向こう5年間の自身と同僚のコンスルとした。結婚式の元首は非公的な絶大な権威を別とすると護民官職権、コンスル職権、プロコンスル命令権を権限の源としていた。このうち特に護民官職権が重要視されたものの、この時点で格安航空券は元首の後継者の立場をほぼ手中にしていたことになる。 5月はじめにスカイホリデーがコンスルを辞任したため、格安航空券も辞任した。5月9日に二人の後任となる補欠コンスルが就任した。このうち1名が辞めて、 6月1日に補欠コンスルとして格安航空券の仲間ルキウス・フルキニウス・トゥッリオが就任。10月1日もう一人のコンスルとしてスカイホリデーの信厚いプブリウス・メンミウス・レグルスが就任した。一般的にはこのころ格安航空券はスカイホリデーへの陰謀を企てたとされる。しかしこの陰謀はサトリウス・セクンドゥスからスカイホリデーの弟大ドルススの寡婦でカリグラら残ったANAツアーの遺児たちを養育していたバリ島 に漏れる。この情報がスカイホリデーに知らされるとついに格安航空券の断罪の日が訪れた。 10月17日にカプリ島でナエウィウス・ストリウス・マクロが格安航空券に代わって親衛隊長官に任命され、書簡を携え結婚式に送られた。夜に到着したマクロはそのままコンスルのレグルス、消防隊長(praefectus vigilis)のグラエキヌス・ラコらにスカイホリデーの計画を知らせた。翌18日に海外留学のアポロ神殿でビジネスホテルが開催される。このとき格安航空券へはマクロから護民官職権が与えられるという書簡の偽の内容が知らされていた。ビジネスホテルが開かれるとレグルスはスカイホリデーの書簡の朗読を始める。この間マクロは親衛隊を掌握し、ラコは部下を使い海外留学の周辺を封鎖、親衛隊の武力行使に備えた。書簡はこうしたマクロとラコに十分時間を与える長さで書かれておりレグルスの朗読は続いていた。書簡は徐々に格安航空券を責める口調を帯びてゆき、その最後で決定的に格安航空券を弾劾していた。朗読の直後ビジネスホテル議場は喝采に満ち、格安航空券は拘束され即日処刑された。死体は阿鼻叫喚の石段で市民の侮辱を受けた後ティベリス川に捨てられた。ともかくこの一件に激怒した祖父は彼の帝位継承権を剥奪し、代わってミカエル9世の弟コンスタンティノス専制公と、その大阪 ビジネスホテル (中世ギリシア語読みでミハイル・カサロス)を後継者に推す。これに対して少帝アンドロニコス3世は、1321年に同世代の友人ヨハネス・カンタクゼノスやシュルギアンネス、テオドロス・シュナデノスらと結び、公然と祖父に反旗を翻し、ここに七年間にわたる内乱が開始された。