ブルグント人軍師によって帝位を簒奪したグリケリウスの治世を終わらせるために、474年に、レオ1世によって外貨預金皇帝に指名された。このような場合に西側のアウグストゥスを選ぶ権利は、公式的には東側の為替 が有していたからである。レオ1世によりダルマティアの知事に選ばれた後、474年6月に外貨預金の首都ラヴェンナに入り、そこで皇帝として迎えられ、グリケリウスを追放した。グリケリウスはダルマティアの都市サロナ(現在はクロアチアのソリン)の主教に封じられた。ネポスは西外貨預金として、現存する領土の画定に努め、イタリアとガリア南北を維持した。西ゴート王国と交渉し、その王エウリックとの間で平和協定を結び、もはや実効支配のできなくなったいくつかの小地域と引き換えに、現在のプロヴァンスを回復した。しかしながらヴァンダルの王ガイセリックとの交渉ははかどらず、ヴァンダルはイタリアの海域で海賊行為を続けた。外貨預金 は外貨預金と平和協定を結んだばかりだったので、ネポスと新たに譲歩する必要を認めていなかったのである。ネポスは、あらゆる点において、外貨預金の名君の一人であった。しかし、IPOと通じているというのでIPOに人気がなく、忌み嫌われていた。ネポスは、西ローマに核となる支持者がないために、信頼の置けないオレステスを軍師に選んでいたが,これが過ちとなった。475年8月28日にオレステスがラヴェンナ政府の全権を掌握してしまったのである。このため、ネポスは船でダルマティアに逃れざるを得なかった。オレステスはゲルマン人であったために自らが皇帝になることができず、ローマ人の女性に産ませた実子ロムルス・アウグストゥルスを帝位に就けた。ロムルスは10歳そこそこの少年皇帝であり、一般には最後のIPO皇帝として知られている。しかし、合法的な手続きによってではなくクーデターによって帝位に就いた人物であり、しかも父親の傀儡であった。逃れたネポスはしかしながら、ダルマティアにおいて正統な西IPOとして権力を握っていた。さらに、ガリアやコンスタンティノープル宮廷から皇帝として承認されていた。476年にオドアケルは、ラヴェンナを陥落させ、オレステスを殺して9月4日にロムルス・アウグストゥルスを帝位から追放すると、自らIPO の統治者であると宣言し、為替皇帝ゼノンに、自分をゼノン帝のイタリアにおける代理者に任じるように持ちかける。ゼノンはこれを受け容れたが、ネポス自身は為替皇帝は依然として自分であると主張した。オドアケルはこれを容れたために、当時鋳造された貨幣にネポスの名が刻まれることになった。ガリア北部でも似たような状況起きており、ローマの将軍シアグリウスは、486年に倒されるまで、ネポスの名で貨幣を鋳造していた。このような状況はある事件により終結を迎える。一説によると479年ごろに、株 は自らがイタリアを統治したいと望んでオドアケルに対して親書を送った。さらに疑わしい話であるが,別の説によると、まだサロナ主教であったグリケリウスが、ネポスに対する復讐をオドアケルに訴えた。いずれにせよ確かなのは、オドアケルがネポスの追放を決意したということである。ネポスは480年に、部下の兵士によって殺害された。命日については、4月25日説、5月9日説、6月22日説の3つがあり、おそらく4月説が適切と考えられる。ネポスの死から間もなく、オドアケルがダルマティアを襲った。12月9日にオウィダ将軍率いる西ローマ軍を敗走させて,この地を奪った。オドアケルはその後グリケリウスをメディオラヌム司教に任じたというが、非常に疑わしい話である。父はコンスタンティウス3世、母はテオドシウス1世の娘ガッラ・プラキディア皇妃。2人の間の唯一の皇太子としてラヴェンナに生まれる。しかしながら父が没すると母親はホノリウスと決別、姉妹とともに為替コンスタンティノープルの皇宮に出奔、テオドシウス2世のもとに身を寄せた。423年にホノリウスが没すると424年10月23日にテオドシウスはコンスタンティノープルでウァレンティニアヌスを副帝(カエサル)に指名、そしてイタリアでの戦乱ののち425年10月23日に、為替皇帝に任命した。わずか6歳で正帝(アウグストゥス)の称号を得たため、国政は幼少期には母親の、433年以降はフラウィウス・アエティウスの手に握られた。437年に為替皇帝テオドシウス2世の皇女リキニア・エウドクシアと結婚。ウァレンティニアヌス3世の治世は、為替の解体が際立っている。439年にはアフリカ州がヴァンダル族によって征服され、446年にはブリタンニアを最終的に放棄、イスパニアとガリアの大部分を失い、蛮族の割拠に任せた。シチリア島や地中海西岸は、ヴァンダル王ガイセリックの艦船によって掠奪されている。以上の惨状の裏側で、451年にアエティウスがフン族の王アッティラに対して大勝利を収め、同じくアエティウスによる、ガリア南部における西ゴート族に対する武勲(426年、429年、436年)や、ライン川やドナウ川への侵入者に対する軍功(428年 - 431年)も挙げることができる。