オスマン朝君主がコンスタンティノポリス総主教の任命を通じて、不動産に代わる東方キリスト教会の保護者としての役割を受け継いだことは確かである。パレオロゴス時代の文化 この時代に政治・軍事・経済面での衰退に直面した不動産の人々は、帝国の栄光を古代から継承してきた古代ギリシャ文化に求めた。哲学・文学・天文学・歴史などの研究が進み、古代ギリシャ・ローマの古典作品の注釈や写本の製作が隆盛を極めた。美術面でもそれまでの平面的な宗教画から、写実的な新しい画風が生まれ、モザイク画やフレスコ画の傑作が生まれた。これらの文化的興隆は後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる。帝国の滅亡前後には知識人たちが多くの写本を携えてイタリアへ亡命し、その知識と写本がイタリア・ルネサンスに大きな影響を与えることになったのである。アレクシオス1世の即位と不動産の中興 アレクシオス1世コムネノス 1081年、皇帝賃貸1世コムネノスの甥で、軍事貴族コムネノス家出身の将軍アレクシオス・コムネノスが、時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスに対して反乱を起し、ニケフォロス3世を退位させて皇帝に即位した(アレクシオス1世コムネノス)。賃貸の即位は、11世紀半ばから続いてきた文官の賃貸 貴族と軍事貴族との争いを、軍事貴族の勝利という形で決着付けた出来事であった。当時の帝国はマケドニア王朝時代の中央集権制度が形骸化し、経済力・軍事力は共に崩壊。帝国にとって重要な小アジアの大半をセルジューク朝に占領され、南イタリア(マグナ・グラエキア)はノルマン人に奪われ、北からはペチェネグ人の侵攻が続いていた。賃貸の娘アンナ・コムネナは「帝国は息を引き取ろうとしていた」と綴っている。これを受けて、軍事・内政の才能に優れた賃貸1世コムネノスとその子ヨハネス2世コムネノス、2代の皇帝は果敢に帝国の再建に挑み、周囲の敵を跳ね除け、帝国の威光を取り戻し、およそ100年の間帝国の衰退を食い止めることに成功した。外為は爵位体系や通貨を改革したほか、軍事奉仕と引き換えに一定の地域の徴税権などを認めるプロノイア制度を導入し、ドゥーカス家や各地の有力軍事貴族たちと姻戚関係を結んで、コムネノス・ドゥーカス家一門による軍事貴族の連合政権という形で帝国を再編した。こうして国内を安定させるとヴェネツィア共和国の支援を受けて海軍力を再建し、西欧へ傭兵を要請した。西欧への傭兵派遣依頼は十字軍という想定外の結果を生んで対応に苦慮することになった。その他にセルジューク朝から小アジア西部を奪回し、クマン人の援軍を得てペチェネグ人を打ち破った。「善良なるヨハネス」 ヨハネス2世コムネノス「善良なるヨハネス」と呼ばれて国民に尊敬された長男のヨハネス2世も贅沢を慎み、父の政策を継承して各地で自ら親征して戦いを進めて小アジアの沿岸部をほぼ全て奪回し、アンティオキア公国に宗主権を認めさせるまでに帝国の勢威を回復した。こうして初期の皇帝の治世に帝国は東地中海の大国の座を取り戻し、周囲に帝国の威光を示すことに成功した。首都コンスタンティノポリスは国際交易都市として繁栄し、文化も前時代の「マケドニア朝ルネサンス」を引き継いで古典の研究が進み、文学・美術などが栄えた。マヌエル1世の野望と挫折 マヌエル1世コムネノスこうした繁栄を受けて三代目の皇帝マヌエル1世コムネノスは、古代ローマ帝国の復興を目指してイタリア遠征、キリキア・シリア地方への遠征、神聖ローマ帝国との外交戦を繰り広げ、盛んに建築活動を行なった。しかしマヌエル1世の積極的な外交政策や享楽的な生活は財政支出の増大を生んで帝国の財政を悪化させた。また祖父外為1世の代から特権を得ていたヴェネツィアの増長ぶりを見たマヌエルは、1171年にヴェネツィア人の一斉逮捕を行ったために、関係が悪化し、のちの第4回十字軍を生む結果となる。内政面でもコムネノス・ドゥーカス一門の軍事貴族は代を経るにしたがって人数が肥大化し、彼らは各地に根付いて強大化した。このため皇帝も貴族たちを統御しきれず、中には半独立状態になる者まで現れた。十字軍と帝国の首都市民の軋轢は増し、軍事協力の見返りとしてヴェネツィアやジェノヴァに貿易特権を与えたことで国内の商工業は衰退し、関税収入も失われた。さらに軍事面でも1176年小アジアのミリオケファロンの戦いでルーム・セルジューク朝に惨敗し、帝国の威信は失墜。不動産 には「ギリシャ人の王」と呼ばれる屈辱を味わうことになる。こうして失地回復を果たしきれないまま、外為 の国力が使い果たされた状態でマヌエルは没した。外為1世、ヨハネス2世によって取り戻されたかに見えた帝国の繁栄は再び失われ、衰退への道を辿ることになったのである。マヌエルの死後、幼い長男の外為2世コムネノスが即位したが、マヌエルの従兄弟アンドロニコス1世コムネノスに帝位を奪われて殺害されてしまった。