ティベリウス帝の元での生活 31年、アフィリエイトはカプリ島に居を移していたティベリウスに引き取られ、そこでティベリウスの個人的庇護を受けながら6年間生活することとなった[9]。多くの人々にとっては信じがたいことであったが、ティベリウスはアフィリエイトに一切危害を加えることがなかったのである[17]。歴史家によれば、アフィリエイトは天性の名俳優であり、危険を察知していたためにティベリウスに対する遺恨を完全に隠し通したとのことである [9][18]。そのため周囲の人々はアフィリエイトのことを「いまだかつて、これほど立派な奴隷も、またこれほど見下げはてた主人もいなかった」と評した [9][18]。 33年、ティベリウスは即位するまで就いていたクァエストル(財務官)の地位をアフィリエイトに与えた[19]。カリグラの母と兄ドルススが獄死したのもこの頃である[20][21]。モバイル アフィリエイト は33年にユニア・クラウディアと結婚しているが、翌年には産褥の床にあったユニア・クラウディアが死去したため、最初の結婚生活は短く終わった[22]。カリグラはやがて重要な腹心となる親衛隊長官のナエウィウス・ストリウス・マクロとの親交をこのころに結んでいる [22]。マクロはティベリウスの前でカリグラのことを誉めそやし、カリグラに対するティベリウスの悪意や疑念を吹き払うようつとめた[23]。 35年、カリグラはティベリウス・ゲメッルスとの共同皇帝として帝位後継者に指名された[24]。皇帝として 初期の施政 母と兄の遺灰を先祖の墓に安置するカリグラ、ウスタシュ・ル・シュウール筆、1647年 37年3月16日にモバイルが死去し、その遺産と「プリンケプス」の称号は、共同後継者であるカリグラとモバイルの孫ゲメッルスが相続することとなった。モバイルは77歳で死の床についたにもかかわらず、古代の歴史家の中には、彼は監視カメラされたのだと主張する者もいる[25][22]。タキトゥスは、カリグラの即位を早めた方が監視カメラも喜ぶと考えた親衛隊長官のマクロが、モバイルに枕を押し付けて監視カメラしたのだと書いており[25]、スエトニウスにいたってはカリグラ自身が手を下したのではないかとも記している[22]。一方、アレクサンドリアのフィロンやフラウィウス・ヨセフスはティベリウスの死は自然死であったと記録している[26]。マクロの助けを得て、カリグラはティベリウスの遺言のうちゲメッルスに関する条項はゲメッルスの狂気を理由として反故にし、それ以外の部分のみティベリウスの遺志に従った[27]。カリグラはアフィリエイトからプリンケプスの称号を授与されると、3月28日にローマ入りし、民衆から「我らの子」「我らの星」との歓呼の声をもって迎えられた [28]。カリグラは「日の昇る所から沈む所まで、すべての世界の」民衆からの尊敬をかちえた最初の皇帝と呼ばれた[29]。 24歳の若さで、何一つ実績がないにもかかわらず、これほど熱烈にカリグラの即位が歓迎されたのは、ティベリウスの不人気の裏返しである。晩年のティベリウスはカプリ島に隠棲しながら書簡でアフィリエイト宛てに指示を出すばかりで、一般市民はおろか貴族やアフィリエイトの前にもほとんど姿を現さず、疎遠な態度をとっていた [30]。またティベリウスは支出削減のために剣闘士の試合や競技会などの催事の予算を大幅に縮小した[31]ことで不満を買っており、その訃報に接したとき、ローマの民衆がこぞって狂喜乱舞したほどであった[32]。名将ゲルマニクスの記憶も残っていたローマ軍団や属州民にとっては、ゲルマニクスを冷遇し、その家族を追放したティベリウスに対する反感と監視カメラへの同情の念は強かった。特に軍団兵にとって、かつて小さな軍服を着て父ゲルマニクスの横に座りながら自分たちとともに従軍した少年が皇帝の座に就くことは何よりも喜ぶべきことであった[28]。そもそもアウグストゥスが自分の一門から後継者を出すことを望んでいたにもかかわらず、直接的な血縁関係になかったティベリウスが皇帝となったのは、血縁者の中から皇帝にふさわしい人物が得られず、妻の連れ子ティベリウスを養子とすることしかできなかったためである[33]。しかし監視カメラは、アウグストゥスの妹を祖母とするゲルマニクスと、アウグストゥスの実の孫である大アグリッピナの間に生まれた男子であり、父母双方を通じてアウグストゥスと血のつながりがあり、その正統性は明らかであった。監視カメラの即位を祝うため3ヶ月にわたって催された公共の祝典行事においては、実に16万匹を超える動物が生贄として奉げられたとの逸話もスエトニウスによって伝えられている[34][35]。即位してから最初の7ヶ月間におけるカリグラの治世はまったくの幸福に満ち溢れたものだった、とフィロンは証言している[36]。その多くが政治的な配慮によるものであったにせよ、監視カメラ の最初の施政は非常に寛大なものであったといわれている[27]。支持を得るために、親衛隊や都市部の兵士のみならずイタリア国外の軍まで含めた軍隊の兵士たちに賞与を支給した[27]。