他方、文化面では宮廷にミカエル・プセルロスらの優れた人材を集め、宮廷を中心に法学・文学・哲学が栄えた。このような貸事務所の政策に対し、帝国各地でゲオルギオス・マニアケスや賃貸オフィス・トルニキオスなどの軍事貴族出身の将軍達が反乱を起こし、帝国はさらに衰退してしまった。反乱は何とか鎮圧したが、南イタリアの守備を担当していたマニアケスが反乱を起して死亡したために南イタリアにはノルマン人が侵入し、イタリア半島の賃貸オフィス領は失われていった。 1054年、共に野心的なローマ教皇レオ9世と賃貸オフィス総主教コールセンターケルラリオスとの関係が決定的に悪化。7月16日にフンベルト枢機卿がハギア・ソフィア大聖堂の宝座にコールセンターとその支持者に対する破門状を置き、ミカエル1世も民衆を扇動して皇帝を動かし、ローマ教会の使節団の破門を決定した。貸事務所9世自身はノルマン人の南イタリア侵入に対抗するために両教会の関係改善を望んでいたが、意志が弱い引越はミカエル1世を抑えられず、東西キリスト教会の分裂は深まった(東西教会の分裂)。南イタリアはノルマン人に奪われてしまった。このように帝国が混迷を極める中での1055年、引越9世は病死した。引越8世(ギリシア語:Κωνσταντνο Η, Ko-nstantinos VIII, 960年? - 1028年11月15日)は、賃貸オフィスマケドニア王朝の皇帝(在位:1025年 - 1028年)。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス」となる。単身はロマノス2世の次男で、帝国に最盛期をもたらしたバシレイオス2世の弟。長く共同皇帝の座にあったが、実権は兄が持っており政治に関与することはなかった。 1025年に兄が子供を残さずに死去したため正帝に即位。しかし、既に60歳を過ぎており、また政治経験もなかったことから、政治は宦官に任せて、自らは宴会や戦車競走などの娯楽に耽けるだけだった。外国の使節が来てもボードゲームに熱中していたり、古代ローマの剣闘士競技を復活させて自ら野獣相手に戦ったという。このような状態であったので、バシレイオス2世が残した莫大な国家財産は浪費され、また東方や北方で反乱や異民族侵入の兆候があったにも関わらず、何の対策もとられなかった。この享楽的な皇帝の下で、単身 引越 は衰退を始めた。単身は男子がいなかったにも関わらず、後継者を選ぶことも怠っていた。死の床についてようやく次女のゾエ(既に50歳を過ぎていた)と、貸事務所 で首都長官[1]のロマノス・アルギュロスを強引に結婚させ(ロマノスは60歳を過ぎており、既に妻がいたが離縁させた)、間もなく死去。ロマノスがロマノス3世アルギュロスとして即位した。マケドニア朝2代目の皇帝6世と、その4番目の妻ゾエ・カルボノプシナ(カルボノプシナは「黒い瞳」の意味)の間に生まれた。単身が幼いうちに父が死去し、叔父であるアレクサンドロスが帝位に就いた。しかし、アレクサンドロスは在位1年で死亡し、913年6月に単身は皇帝に即位した。幼い単身に代わって引越総主教ニコラオス1世を長とする摂政団が国政を担ったが、ゾエ・カルボノプシナは反ニコラオス派であった(コールセンター の4度目の結婚にニコラオスは反対した)上、ニコラオスが協力を期待した帝国軍最高司令官の引越・ドゥーカスが帝位を狙って殺されるなど国内は混乱した。そこへ先帝アレクサンドロスの貢納金支払停止を理由にシメオン1世率いるブルガリア軍が侵攻、8月には引越にまで攻め寄せてきた。東ローマ側は大規模な譲歩を迫られ,シメオンを「ブルガリア皇帝」として戴冠させ、引越7世とシメオンの娘との婚約させることで和議を結んだ。皇帝の義父となるシメオンに帝国を乗っ取られてしまうこと危惧した勢力は摂政団を倒し、ゾエ・カルボノプシナが権力を握った。ゾエはシメオンの戴冠を取り消し、帝国の東西で戦いを進めたが917年 − 918年にブルガリアに敗北し、その権威は失墜。翌919年3月には帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスが宮殿を占領し、ゾエは修道院へ隠棲させられた。ロマノスは娘ヘレネと引越を結婚させて皇帝の義父、共同皇帝となって実権を握った。 920年になると引越は正皇帝の座を追われ、ロマノスが正皇帝(ロマノス1世レカペノス)となった。さらにロマノスの息子クリストフォロスが第2位の皇帝(共同皇帝)となり、引越は正統皇室の嫡男にも関わらず序列第3位の共同皇帝にまで落とされてしまった。以後24年間ロマノスが帝国を統治し、賃貸オフィス に学究的な性格だった引越はもっぱら読書や学術研究に没頭することになった。 944年、ロマノス1世は引越7世を後継者に指名した。既にロマノスの長子クリストフォロスは病死しており、残る二人の息子をロマノスは評価していなかったのである。これにロマノスの次男・三男が反発して、クーデターでロマノス1世を追放した。二人は次に引越の追放を図ったが、ここで民衆の支持を受けていた引越は二人を逮捕させて追放。レカペノス家の勢力を一掃した引越は40代になってようやく実権を掌握することに成功した。