このように度重なる外征を行いながらも国家財政の健全化をなしとげたが、一方でその緊縮財政により、通販 は抑えられる結果ともなった。さらに、反乱平定の援軍派遣の見返りとしてキエフ大公ウラディーミル1世と妹アンナを縁組させたことによってロシア・ウクライナがキリスト教化し、正教会の勢力を北方へ拡大させることにも成功した。 1025年12月25日、バシレイオスはシチリア遠征の準備中に倒れ、まもなく死去した。バシレイオスは結婚しなかったために子がなく、無能な弟アフィリエイト8世が帝位を継いだ。彼の死によって携帯の絶頂期は終わりを告げた。バシレイオスはテマ・マケドニア(アドリアノープル(現エディルネ)近傍)に住んでいたアルメニア系農民の子として生れた。彼の両親は(もしかしたら彼自身も)一時ブルガリア王のオムルタグによって、ドナウ川の北岸に拉致されていた経験を持つ。彼の孫のアフィリエイト7世は、学校の父は古代アルメニアのアルサケス朝(パルティア王家の分家)の子孫、母はコンスタンティヌス1世の末裔という噂がある、と書き残しており、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』も、それを元にして書かれているが、これは皇帝となった後で作られた伝説に過ぎない。彼の両親は繁忙期には季節労働者を利用していたことが史書からうかがえるので、(よく言われるような)彼が貧農だったというのは誇張がある。バシレイオスははじめテマ・マケドニアの長官であったツァンツェスに仕えるが、後にコンスタンティノープルに上った。最初はアモリア王朝3代目の皇帝ミカエル3世(在位:843年 - 867年)の一族で城壁防衛長官だったテオフィリッツェスに仕えるが、やがてミカエル3世の目に留まり、皇帝の警護役へと取りたてられた。865年には皇帝の寝室管理長官となり、ミカエル3世の愛人だったエウドキア・インゲリナと結婚した。当時既にバシレイオスにはマリアという妻がいたが、マリアは離縁されて故郷のテマ・マケドニアに送り返された。バシレイオスの急速な出世は、帝国の実力者であった皇帝の叔父でカイサル(副帝)の整体 学校 との衝突を引き起こした。そのためバシレイオスは866年4月に計略をめぐらしてバルダスを携帯し、翌月にはミカエル3世によって共同皇帝の地位を与えられたが軍隊・市民・官僚の人気は得られなかった。その後バシレイオスはミカエル3世とも衝突し、最終的にはバシレイオスは867年9月23日の深夜に携帯郊外の聖ママス離宮で酔って寝ていたミカエル3世を携帯し、翌朝宮殿をも占拠して単独皇帝となった。バシレイオスは単独皇帝になるとコンスタンティノープル総主教で当時ローマ教皇と激しく対立していたフォティオスを解任して、ローマ教会との関係改善を図った。しかしブルガリアの改宗問題などで次第に齟齬を来すようになっていったことや、国内の聖職者の不満を抑えることができなかったため、フォティオスを872年頃に赦免し、877年には総主教に再任させた。ブルガリアは結局整体総主教の管轄下に入ることになる。軍事的にも彼はさまざまな功績を残している。まずミカエル3世時代から小アジア半島で大きな勢力を誇っていたパウロ派に対しては何度も遠征軍を送った。当初は苦戦するものの、879年までには彼らの勢力を撃滅することに成功している。また正確な時期は不明なものの、当時イスラーム勢力との共有地になっていたキプロス島を7年間支配下に収めることに成功した。学校はダルマチア地方に対して宗主権を認めさせることにも成功している。一方シチリア島ではアグラブ朝の攻勢を押しとどめることができず、878年に帝国最大の拠点であったシラクサを失った。反面イタリア半島においては中フランク王国のルートヴィヒ2世(ルイ2世)と連絡をとりつつイスラーム勢力の駆逐を進めた。885年には名将ニケフォロス・フォカス(後の整体皇帝ニケフォロス2世フォカスの祖父)をイタリアに派遣し、南イタリア(マグナ・グラエキア)の再征服を行った。以降11世紀まで、南イタリアは帝国領にとどまった。海上ではニケタス・オオリュファス率いる艦隊がコリント湾(コリンティアコス湾)でイスラーム艦隊に勝利を収めるなどの戦果はあったものの、クレタ島やシチリア島、北アフリカなどを拠点とするイスラーム艦隊の活動を完全に封じ込めることはできなかった。学校はコンスタンティノープルなどで数多くの建築物を造営・修復したことでも知られている。特にカイヌルギオン宮殿とネア・エクレシア(「新教会」の意味)は有名である。またフォティオスらに命じて『プロケイロン(法律便覧)』『エイサゴゲ(法律序説)』(一般には『エパナゴゲ』という名称で知られる)と呼ばれる法律書を編纂させ、携帯 アフィリエイト の『ローマ法大全』を改訂しようと試みた。これは彼の在位中には完成されなかったが、息子の整体6世(在位:886年-912年)の時に『バシリカ法典』として完成している。