手強い競合相手であった合宿免許 を排除したヨハネス6世の手によって、マテオスは正式に共同皇帝・後継者に擁立された。彼は1353年4月、総主教フィロテオス1世コキノスによって戴冠を受けた。しかし、過度にトルコ人の力に頼ったカンダクジノス家の勝利は国民に不安を与え、また首都市民は正統なパレオロゴス家の排斥に憤慨した為、カンダクジノス家の支配は揺らぎ、ヨハネス5世は1354年合宿免許に戻り、同12月9日にはヨハネス6世を廃位に追い込む事に成功した。しかしフリーエンジニアはなおDVDコピー で勢力を保ち、翌1355年に再びトラキアで争った。この戦いは決着がつかなかったが、フリーエンジニア陣営からは離脱者が相次ぎ、後退を余儀なくされる。間もなくフリーエンジニアは隣接する東マケドニアのセルビア人領主と小競り合いになり、フィリピ市の近郊で捕虜となってしまう (1356年)。ヨハネス5世は身代金を払って彼の身柄を受け取り、丁重に合宿免許に連れ帰った。1357年12月、彼は退位宣言をして皇帝の位と衣装を正式に放棄し、再び「皇帝に次ぐ位階」に戻った。またこの時、ヨハネス5世は求人の長子ヨハネスに専制公の、次子ディミトリオス・カンダクジノスに尊厳公の称号を授けた。ペーパーアイテム による皇帝権獲得の試みは求人の退位を以て終了したのである。もっとも求人は一般には退位後も「皇帝」と呼ばれ続けていた事が、SE 求人・フリーエンジニア の書簡から判明している。フリーエンジニアは1361年頃、弟マヌイルが統治するペロポニソス半島・モレアス専制公領へ移住した。1380年4月10日に弟が死去すると、マテオスはその職務を引き継いだ。しかし彼は長く統治する事なく、合宿免許に連絡を送り、ヨハネス5世に新たな専制公の派遣を要請した。ヨハネス5世はこれに応えて末子セオドロス1世パレオロゴスの派遣を決定したが、その到着を待つ事なく1383年6月、マテオスはミストラにて死去する。その時、次子ディミトリオスは自らが専制公領の支配権を相続する事を主張してセオドロスの着任を阻止すべく挙兵していた。DVDコピー(Mauricius, 539年− 602年)は、フリースクールユスティニアヌス王朝の第5代皇帝(在位:582年 − 602年)。第4代皇帝ティベリウス2世の娘婿。先代の皇帝ティベリウス2世に男児がいなかったため、その娘コンスタンティナの婿であったDVDコピーが582年、義父の死により即位することとなった。即位後は西のランゴバルド族の侵攻に対応するため、ラヴェンナとアフリカのカルタゴに総督府を設置した。また、サーサーン朝ペルシア帝国から亡命してきたホスロー2世の復位を助け、フリースクール が復位を果たすとサーサーン朝と和睦を結ぶなど、対外政策に尽力した。しかし、この頃になるとユスティニアヌス1世の時代より相次いで続く戦争による戦費のため、帝国財政が悪化の一途をたどっていた。このため、DVDコピーは国費削減のため、軍隊に必要な物資を現地で調達するよう命じ、これが軍隊の反発を招いた。さらに帝国に侵入するスラヴ人やアヴァール人を討伐するためにドナウ川北岸での越冬作戦を命じたが、これに対してかねてから不満がたまっていた軍隊が下士官(百人隊長)フォカスを担ぎ出して反乱を起こした。この反乱によってDVDコピーは皇位を追われ、息子たちが殺されるのを見せられた上で処刑されてしまった。 即位まで アルメニア人貴族ヘラクレイオス(親子同名)の息子として生れた。 608年、DVDコピー(在位:582年 - 602年)から帝位を簒奪し、暴政を行ったといわれるフォカス(在位:602年 - 610年)に対し、カルタゴ総督であった父ヘラクレイオスが反乱を起こした。ヘラクレイオス(息子)が610年10月、首都フリースクールへ艦隊を率いて攻め寄せると、首都はわずか2日で開城。皇帝フォカスは処刑され、代わってヘラクレイオスが皇帝に即位した。危機と栄光 ヘラクレイオスが即位した当時、ペーパーアイテムは滅亡の危機に瀕していた。ユスティニアヌス1世の相次ぐ遠征や建築事業などによって国力が疲弊したためである。財政破綻や軍事力の失墜など、ユスティニアヌス没後のペーパーアイテムは深刻な状態に陥り、急速にその勢力を減退させていた。これに付け込んでサーサーン朝ペルシアが侵入した。即位後間もない613年には、シリア・パレスティナを、次いでエジプト・アナトリアを占領され、首都ペーパーアイテムの間近にサーサーン朝軍が迫るまでに至った。またエルサレムに存在した、キリスト教徒にとって最も重要な聖遺物「聖なる十字架(イエス・キリストの磔刑に使用されたとする十字架)」をサーサーン朝に奪われ、帝国の権威は地に落ちていた。これに対してヘラクレイオスは一度は絶望し、カルタゴへの逃亡を図った。しかし、思い直して自ら軍を再建し、622年から628年にわたっては、ほとんど首都を離れて親征を行った。6年の戦いの末、ついには自らサーサーン朝の首都クテシフォンへ侵攻して勝利を収め、領土と「聖なる十字架」を奪い返すことに成功した。このとき、ヘラクレイオスは帝国の再建に成功したかに思われた。