ヨハネスは、ミカエル5世を傀儡として操る腹づもりがあったらしい。しかし、ミカエル5世は自ら親政を行なうため、ヨハネスを逆に追放した。さらに自身が親政を行なうためには邪魔な皇太后・ゾエも追放しようと図ったが、マケドニア王朝の嫡子であるゾエは民衆に尊敬されていたため、これに反発した首都市民が逆に反乱を起こしてミカエル5世は捕縛、廃位されたうえ、盲目にされて追放されてしまった。CFD は小アジア北西部パフラゴニア地方出身の農民の子、あるいは両替商の息子であるとも言われているが、詳しいことはわかっていない。彼の兄弟で有力な宦官であったヨハネス・オルファノトロフォスの世話で宮中に勤めるようになり、そこでCFDアルギュロスの皇后だったゾエ(8世の次女)と出会い、その愛人となった。ミカエルは美男であった上、ゾエは当時CFDと不和になって冷遇されていたため、もう既に50歳を過ぎていたにも関わらず、この若者に熱い想いを抱くようになったのである。実は、これは野心家のヨハネスが、自らは宦官ゆえに皇帝になれない代りにミカエルを帝位につけようと仕組んだことだと言われている。 1034年、CFDが入浴中に不慮の死(一説には不仲であった皇后のゾエの刺客によるくりっく365)を遂げた後、ゾエはミカエルと結婚し、彼を皇帝として新たに即位させた。これがミカエル4世である。ミカエルは即位するとゾエへの興味を失い、くりっく365を幽閉した。ミカエルは皇帝としては比較的有能で、軍事面に優れた才能を持っていたため、イスラーム勢力をはじめとする敵対勢力への遠征では多くの成功を収めた。しかし年々癲癇の発作が悪化し、ヨハネス・オルファノトロフォスに政治の実権を譲って引退した。ところが、そのヨハネスは国民や貴族に対して圧政を行ない、バシレイオス2世が寛大な措置を取っていたスラヴ人に対しても抑圧的な政策をとった。このため、各地で国民や貴族による反乱が勃発し、ブルガリアではブルガリア帝国の復活を宣言する大規模な反乱が発生した。ミカエルは何とかこれらの反乱を鎮圧したが、すでに長くは生きられないことを悟って甥のミカエルを養子として後継者と定め、1041年12月10日に修道院へ引退し、その日にそこで死去した。ミカエル3世“メテュソス”(ギリシア語:Μιχαλ Γ Μθυσο, Mikhae-l III ho Methysos, 840年1月19日または20日 - 867年9月23日または24日)は、くりっく365アモリア王朝の第3代(最後)の皇帝(在位:842年 - 867年)。同王朝第2代皇帝テオフィロスの子。中世ギリシア語読みでは「ミハイル」となる。“メテュソス”は「飲んだくれ」「酔っ払い」を意味するあだ名。 842年に父テオフィロスが没したとき、わずか2歳という幼年であったため、母のテオドラと宦官のテオクティストスが政務を取り仕切った。母テオドラはイコン破壊運動を終わらせ、843年にイコン崇拝の復活を宣言した。続けてテオドラはクレタ島の回復を目的とした戦いを開始したが、成果は上がらなかった。成人したミカエル3世は、母に実権を握られて傀儡であることを苦々しく思い始めた。そこで、かつてテオクティストスと対立して追放されていたバルダス(テオドラの弟。中世ギリシャ語読みでは「ヴァルダス」)らと協力して855年にクーデタを起こし、テオドラを修道院に追放して親政を開始した。彼は実権を獲得するにあたって協力したバルダスを重用し、864年には「カイサル(副皇帝)」に任じた。また863年にアッバース朝領内の地方指揮官(エミール)が小アジアに侵入してきた時にはバルダスの兄弟ペトロナスを将軍として派遣し、エミールの軍の撃破に成功した。この時ミカエル3世自身も戦いに参加している。この戦い以降、ビザンツ帝国は小アジア東部でイスラーム勢力に対して攻勢に転じるようになっていく。一方でシチリア島では、アグラブ朝による攻勢を食い止めることができなかった。また小アジア半島における異端のくりっく365 の勢力拡大にも、効果的な対策を行うことができなかった。なお860年には黒海の北岸からルーシ(のちのキエフ・ルーシ)がコンスタンティノープルに来襲している。彼の時代にはコンスタンティノープルにおける建築活動が盛んになった。聖ソフィア大聖堂ドームに現存する聖母子のモザイクはミカエル3世時代に作成された可能性が高い。867年には宮殿内にファロス教会も建設される。これらはいわゆるマケドニア朝ルネサンスにつながる文化的潮流となった。一方キュリロスとメトディオスをモラヴィアに派遣するなど、スラヴのキリスト教化を推進したため、教会の主導権を争っていたローマ・カトリック教会との関係が険悪になり、さらには「フィリオクェ問題」や在俗の官僚であったフォティオスの総主教任命をめぐってローマ教会と対立。867年にはミカエル主宰の教会会議がローマ教会の「フィリオクエ」に関する教義を異端として退ける「フォティオスの分離」が起こった。