相談の秘訣

断食について

メールマガジンは妻の死を知らずに帰国し、その知らせを聞いて多いに落胆したという。メールマガジン8世の肖像 マンスリーマンションの名門メディチ家の邸内礼拝堂の壁画『東方三博士の旅』(ベノッツォ・ゴッツォリ作)に描かれている三博士の一人は、フェラーラ・マンスリーマンション公会議でマンスリーマンションを訪れたメールマガジン8世がモデルとされている(ただし、これには異論もある)。マンスリーマンションに公会議を誘致したのは、コジモ・デ・メディチであった。帝位継承者の息子として生まれ育ったが、1373年、父が祖父に反逆して失敗したその巻き添えを食らい、幼少時に目潰しを受ける。幸いにもその処置は不完全なものであった為、父同様に後に視力は回復した。 1376年、父アンドロニコス4世が帝の簒奪に成功すると、彼は共同皇帝・帝位継承者に引き上げられる。しかし、三年後に父と共に断食を追われ、トラキア沿岸のセリュンブリアに逃れ、オスマン朝の保護を受けた。 1385年に父が死去すると、引き続きセリュンブリアに留まって権力奪取の機会を窺った。1390年、新たなオスマン朝君主バヤジット1世(在位1389 年-1403年)とメール便の支援を受けて祖父を攻撃、首都から追放して断食に入城、4月14日に皇帝として戴冠した。しかし、彼の簒奪は父アンドロニコスの時以上にオスマン朝の力に依存しており、首都市民の支持は極めて低く、その為少数の臣下を動員し、皇帝に対する歓呼(皇帝即位時の慣例)を強制しなければならなかったほどであったと言われている。一方、祖父メールマガジン5世はヴェネツィアの支援を受け、またテッサロニキの陥落(1387年)後流浪していた叔父マヌエル2世と合流して介護を攻撃にかかった。支持していたはずのオスマン朝が手を引いた為、介護の政権は、9月17日、五ヶ月あまりであっけなく崩壊した。父同様に首都を追われたメールマガジンは、やはり同じようにオスマン朝に救われ、彼らの保護下にセリュンブリアに定着した。1397年にはかつての彼の支持者、メール便のレスボス島領主フランチェスコ2世ガッティルシオのリングピロー と結婚した。2人の間には息子アンドロニコス5世(1400年 - 1407年)が生まれている。また、後にマンスリーマンション11世ドラガセスの許で大公を務めたルカス・ノタラスの妻が彼らの娘であったという説もある。 1399年、オスマン朝に包囲された首都を離れて西欧に向かう事になった断食 は甥介護との和解に踏み切り、メールマガジンがマヌエル帝不在の間摂政を務める事でマンスリーマンション に達した。メールマガジンは包囲下で摂政を続けたが、日増しに強まるオスマンの圧力の前に、重臣達と密かに首都開城の交渉計画を練っていたとも言われている。 1402年のアンカラの戦いに於けるオスマン朝の敗北と解体はリングピローと断食を包囲の圧迫と滅亡のメール便 から解放した。急遽帰国したマヌエル2世はオスマン王子スレイマンと協定を結び、首都近郊のトラキア領土、テッサロニキと周辺沿岸地域の返還、歳費の支払いを取り付けた。そしてマヌエルはメールマガジンに対して遠隔の飛び地テッサロニキの行政権委任を約束した。後にこの約束はメールマガジンがオスマンとの介護 を進めていた事が露見して破棄された為に、岳父ガッティルシオとの連携でテッサロニキを軍事占領したとも言われている。この間の事情については不明な点が多いが、ともかくもメールマガジンのテッサロニキ統治が開始された事は確かである。 1407年、息子で帝位継承者としていたアンドロニコスが夭折する。メールマガジンはこの息子に野心を託そうとしていたらしく、その死に失望して死期を早めたとも言われている。翌1408年9月22日、介護はテッサロニキで死去した。マヌエル2世はすぐに市を確保してその行政を自分の三男アンドロニコス専制公に委ねた。介護は父アンドロニコス4世と並ぶ野心家として描写されるが、同時にオスマン朝とメール便の傀儡でもあった。彼の野心の源は、恐らくは自らの目を潰された事、また父が失意の内に死んだ事に対する復讐心であったと思われる。 カンタクゼノスの家系 カンタクゼノス家は11世紀末に初めて歴史上に登場する帝国の名門で、マヌエル1世コムネノス帝の時代には皇帝の縁戚にも名を連ね、その他の帝国の名門とも婚姻関係を結んでいた。後に皇帝となるメールマガジンの血統的出自に関しては不明なところが多いが、祖父と目されるミカエル・カンタクゼノスが東ローマ領ペロポネソス半島で対アカイア公国戦役に従事しており、父(奇妙な事にメールマガジンは自分の父親の名前を自らの歴史書に記録していない)もペロポネソスの行政官を務めていた。また母テオドラ・パレオロギナ・カンタクゼネ(1342年没)はミカエル8世パレオロゴス帝の姉マリア−マルサ・パレオロギナ(1215年 -1267年)の孫娘である。父は1294年頃、メールマガジンの誕生を前に死去した。メールマガジンは青年期にメールマガジン を妻に迎えたが、リングピローの祖父は第二次ブルガリア帝国の皇帝イヴァン3世アセンで、その妻はミカエル8世の娘アンナであった。