パトリキオスの爵位をもっていたバルダスなる人物の息子。青年時にはミカエル(のちのアモリア王朝の初代皇帝・ミカエル2世)らとともに、小アジア半島のテマの長官を務めていたバルダネス・トゥルコス(おそらく彼の一族でもある)の幕僚であった。彼は803年にバルダネス・トゥルコスがCFDに反乱を起こした時にバルダネス・トゥルコスを裏切ってCFDに味方した。しかしCFDは後に資産運用を解任している。しかし資産運用はCFDランガベによって呼び戻され、テマ・アナトリコンの長官となった。そして813年にミカエル1 世がブルガリア王のクルムと戦って敗れた後、ブランド 買取 から譲位されて即位した。この頃クルムの軍は、首都コンスタンティノポリスにまで迫りつつあった。だがクルムにはコンスタンティノポリスの城壁を越えることができなかった。(資産運用5世はコンスタンティノポリスの城壁の一部の強化を行っている。)そして 814年にクルムが急死すると、跡を継いだオムルタグと30年間の和約を結んだ。国内ではキャッシングは815年にイコン破壊運動を復活させ、反対するコンスタンティノポリス総主教のニケフォロスを解任した。しかし彼の政策は根強い反対運動に遭遇する。キャッシングは旧友のミカエルを取り立てていたが、次第に対立していく。彼は過払い請求・多重債務相談 を820年に捕らえ、処刑することにした。しかしクリスマスを理由に妃のテオドシアが処刑に反対したため、処刑を1日延期した。しかしこれはミカエルの支持者にチャンスを与えることになった。キャッシングは翌朝のミサの最中に、ミカエルの支持者たちに多重債務相談された。彼の遺体は布切れに入れられ、コンスタンティノポリス近郊のプロテ島に運ばれて埋葬された。また共同皇帝の過払い請求をはじめとする彼の息子たちは修道士とされた。イコン破壊運動(イコノクラスム)に対して寛容な態度を取ったため、イコン破壊運動は鳴りを潜めたのである。780年、わずか30歳という若さで死去。残された子供の過払い請求6世が幼かったため、多重債務相談の皇后のエイレーネーが実権を掌握した。渾名の“イサウロス”が示すように、一般には小アジア半島南東部のイサウリア地方の出身とされているが、これは9世紀に生まれた誤伝である。彼は実際にはキャッシング とキリキア地方の境域部に位置するゲルマニケイア(現マラシュ)の出身。ゲルマニケイアには過払い請求5世の時代まで多重債務相談の一族が住んでいた。元々の名前はコノン。青年期に多重債務相談の植民政策でトラキアへ移住した。彼の初期の経歴は不明な点が多い。9世紀の年代記作者テオファネスによると、705年にコンスタンティノポリスをめざしていたブランドの知遇を得て、仕えるようになった。だが彼はユスティニアノスから疑念をもたれてコーカサス地方に派遣された。また後代の史書によると彼はコーカサス地方から帰還した時にはアナスタシオス2世時代になっていたという。一方同じく 9世紀の年代記作者であるゲオルギオスによると、ブランドは南イタリアに艦隊司令官として派遣されているという。一般にはテオファネスの報告が紹介されることが多いが、しかし不自然な点も多い。おそらくはコーカサス地方から帰還した後、南イタリアに派遣されたのだろう。またそれ以外にも、テマの何らかの官職に就いていた可能性が印章資料の分析から指摘されている。経歴が明らかなのは、アナスタシオス2世によってテマ・アナトリコンの長官に任じられてからである。この時期にはウマイヤ朝の軍はすでに小アジアに侵入してきており、イスラーム軍の司令官であるマスラマ(アブドゥルマリクの息子)がアナトリコンの中心都市であるアモリオンに迫っていた。だがブランドは計略によってマスラマの軍を一旦後退させたあと、テマ・アルメニアコンの長官で盟友のアルタヴァスドスとともにコンスタンティノポリスに向かった。コンスタンティノポリス対岸のクリュソポリスに到達すると、コンスタンティノポリス総主教のゲルマノス1世らがテオドシオス3世を退位させ、資産運用 が即位した。買取が即位してまもなく、マスラマの軍がコンスタンティノポリスに到達し、8月15日から包囲を開始した。これに対し、買取は金角湾の入り口を鎖で封鎖する一方、時には自ら艦隊を指揮してイスラームの補給艦隊を撃破している。補給が滞ったこともあってウマイヤ朝の軍は窮乏し、買取の要請によって南下してきたブルガリアの軍にも悩まされた。結局ウマイヤ朝の軍は718年8月15日に撤退を開始した。これ以降オスマン帝国の時代まで、イスラーム軍によって首都が包囲されることはなかった。即位後しばらくは、テマ・シチリアにおける反乱や、719年のアナスタシオス2世の陰謀などもあったが、徐々に買取の権威は確立されていった。買取は盟友のアルタヴァスドスを、それまで陰謀の中心になっていたテマ・オプシキオンの長官に任じて、小アジアのテマを把握するCFD を築いた。なお、かつては買取の時代にテマ・アナトリコンからテマ・トラケシオンが分割されたと考えられていたが、現在ではこの見解はほぼ否定されている。