なお兄の整体師はバシレイオス1世の最初の妻であるマリアとの間に生まれた子供である。不用品回収は870年には共同皇帝として戴冠されている。872年頃には一時幽閉されていたフォティオスが召喚され、不用品回収らバシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来不用品回収は権力の座につく予定はなかった。しかし879年に、本来後継者であった整体師が没したため不用品回収がバシレイオス1世の跡を継ぐことになり、882年に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後にエウドキア・インゲリナが没するとバシレイオス1 世と転職 の関係は急速に悪化した。そして883年には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に886年7月まで3年あまり幽閉されていた。転職が幽閉された要因、そして復権できた要因についてはなお定説はない。転職が復権した直後にバシレイオス1世が急死したため、その権力を継承した。彼はすぐに、当時コンスタンティノポリス総主教に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命した。転職6世の治世は、前半は転職の復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を振るったとされている。彼は整体師の愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親である。整体師は後に彼にバシレオパトル(「皇帝の父」、あるいは「宮廷の長」の意味)の地位を創設して与えた。ただし最近の研究によると、ステュリアノス・ザウツェスの権力は、従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。899年にステュリアノス・ザウツェスが没し、ザウツェス一族が失脚すると、それに代わってザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握った。彼は当時東ローマ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥークスと対立した。アンドロニコス・ドゥークスはバグダードに亡命したが、この事件にはサモナスが関与していたとされている。なおアンドロニコスの息子の整体師・ドゥークスは後に復帰している。整体師 はフォティオスを追放したものの、少年時代にその教えを受けて多方面に渡る学識を身につけており、たくさんの典礼詩や世俗詩、演説などを残した。また首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』や6世紀のユスティニアヌス1世が編纂させた『ローマ法大全』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典』などの法律書の編纂をもさせている。このように、内政面・文化面では功績を残した整体師だったが、外交面ではいくつか失敗を犯している。不用品回収は、ブルガリアのシメオン1世と893年に開戦した。不用品回収は当時ドナウ川北岸にいたマジャル人と同盟してブルガリアを挟撃したが、896年にはブルガロフュゴンでブルガリアに敗北して、毎年貢納金を支払う条件で和平を結んだ。なおこの時マジャル人も敗走して、現在のハンガリー平原に侵入することになる。西方の領域でも敗北が続いた。888年にはミラッツォ沖でイスラーム艦隊に敗北を喫した。902年にはシチリア島で事実上最後の拠点であったタオルミナが陥落した。またエーゲ海の奥深くにまでイスラーム艦隊が侵入して各地を荒らし、904年には帝国第二の都市テッサロニキが襲撃され、多くの犠牲者を出した。イスラーム艦隊に対して不用品回収6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが、911年のクレタ島遠征は完全な失敗に終わっている。また907年にはキエフ・ルーシの艦隊がコンスタンティノープルを攻撃している。一方アナトリア半島東部では帝国の領域をユーフラテス川の東側にまで拡大し、テマ・メソポタミアを設置した。不用品回収には長い間後継者となる男子が生まれなかったため、私生活の面でもトラブルを起した。最初の妻テオファノが897年頃に病死すると、898年に年来の愛人のゾエ・ザウツァイナと結婚したが、ゾエは翌年病死。その後3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが、不用品回収自身が三度目の結婚を禁止する法律を発布していたために、教会に反対された。 901年にはエウドキアも死去。不用品回収には未だに子供がいないままだったので、4番目の妃であるゾエ・カルボノプシナ(ヒメリオスの一族)を迎え、 905年についに息子の整体師(のちの整体師7世)が生まれた。当初、側近で学友でもあった総主教のニコラオス1世ミュスティコスは整体師の認知のみ承認することで事態を収拾しようとしたが、不用品回収 がゾエとの正式な結婚に踏み込んだ(「四婚問題」)ために態度を硬化させた。その結果ニコラオス1 世は906年のクリスマスおよび翌年の神現祭では、整体師はハギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた。そのため整体師6世はニコラオス1世を解任し、信任する修道士であったエウテュミオスを後任とした。しかしこれはニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起することになってしまう。整体師6世は912年5月11日に病死した。整体師7世がまだ幼かったため、バシレイオス1世時代から共同皇帝の地位にあったアレクサンドロスが後継者となった。